学校の勉強は必要か?
あなたは、学生時代もっと勉強していればよかったのに・・と後悔していますか?
勉強と子供の心
学生時代もっと勉強すればよかったのに・・ どこか決まり文句のように、大人が言っているイメージのあるこのコトバ。
私は、全く逆だ。
もっと勉強を"しなかったら"良かったのに、と最近思うことが多い。
独創的なアイデアを生むためには、子供の心が必要だとよく言われる。
子供の発想は、とても本能的で動物的であって、大人から見れば、理屈が通っていないし、論理的でもないし、非常識だし、バカにしがちだ。
その論理や常識は学校で教えられる。 学校で勉強をするということは、あらゆる物事を論理的に理解し、論理的でないものは不正解だと考え、 常識から外れたコトは、非常識だと切り捨てられる。
その極みが受験勉強だ。 受験勉強においては、答えの決まった問題をひたすら解く能力ばかりが磨かれて、答えのない問題への対処は、それがまるで重要でないかのように、考える機会すら与えられない。
大学受験・高校受験に従順に立ち向かった人なら、共感するところもあると思うが、体育や家庭科などのいわゆる副教科が、無駄で意味のない時間だと思っていなかっただろうか?
少なくとも当時の私は、副教科は受験に必要ないから、時間の無駄だといって、出席すらロクにしていなかった。家でひたすら勉強する方が、効率的だと思っていたのだ。
矛盾
27歳になった今、アートの重要性を主張する本を読む機会が多く、そこでふと自分がまじめに絵を描いたのはいつかと振り返った。 一番近い記憶で、小学校6年生までさかのぼるのだ。
ひまわりの立ち並ぶ景色を描いて、夏休みの宿題として提出した。 それ以後は、中学校時代においても、英語が苦手な友達と、英語と美術の宿題を交換するなどして、ひたすら勉強に無意味だと思われることを遠ざけてきたのだ。
つまり、吉田しげるは、小学校を最後に"子供のこころ”を失っていたのだ。
そして、現在、私は塾において中学生に勉強を教えているのだ。何たる矛盾か。
勉強をもっと"しなかったら"よかった、と思っている私が勉強を教える立場にいるのだ。
ただ、日本のこうした偏差値教育に風穴を開けるためには、教える立場に立つことでこそ可能になるのかもしれないと思い、アルバイトをしている。 矛盾と野望を抱えながら、塾講師をしている。
私の文章について
私のブログの文章が、どうにも脈絡がなかったり、つながりがわかりにくい、と感じるかもしれない。 それはある程度、意図的なのです。パソコンに向かいながら、その瞬間瞬間に、自分の頭から湧き出てくる、記憶・体験・アイデア・主張・想像を書き出すことを試みている。
文章の中で、ひとつのアートが実現できないかとイメージしているのです。論理的できっちりした文章だけじゃつまらないと思うので。
また私自身の失われた"子供のこころ"を、ブログという場において、文章という形で、取り戻し、発揮させたいと思うからでもあります。
しかし同時に、私が肝に銘じたいのは、キッチリ論理的で相手に伝えたいコトが伝わる文章も、一人前に書けるようになるのが理想です。
ピカソも、あのハチャメチャな絵は、いかに子供になれるか、という信念の下で描いた。一方で、ピカソは現実を正確に描く技術も一人前だった。